2010年02月17日

みゃくらくなく

 人のからだについていろいろと考えてたら話がすごい方向に転がっていったよ。






  自分の内臓って普通に暮らしてればあんま意識することないじゃない。「あー心臓動いてる」「肺がふくらんできたよー」「今日は小腸が活発だなぁ」とか、考えないじゃん。そんなに。
 毎日楽しく健康に過ごしている人ほど「内臓」に対する認識って甘いと思う。
 なんでかっつーと、それは奴らが存在を自己主張するのは、どっか傷ついたとか、炎症起こしてるとか、うまく動いてないとか、つまり「警告」と同義だからじゃないかね。
 これって「生きる」っていう目的を果たすために組み込まれた優秀なシステムだと思うんだけど、まぁそれは別の話。

 これでもまだ「内臓」をしっかりはっきりきっぱり認識するには不足かな。やっぱその目で見るのが一番だよね。
 レントゲンやら胃カメラで自分の内臓を客観的に眺めてみて初めて人は「内臓」の存在に気づくと言っても過言ではないと思うんだ。
 なんかおかしいよね。自分のからだの一部なのにね。つまり「自分」なのにね。
 失いそうな危機に直面して初めてそれを労わろうとする気持ちが生まれるんだよね。はいこれもシステムですねわかります。

 何が言いたいかっつーと、「自分」を客観視するのって大変だよね、ってこと。
 なにかきっかけがないと駄目なんじゃね、ってこと。
 だまし絵のトリックに気づいた時みたいに、なんか劇的なスイッチが脳ミソの中にあるのかしらね?

 「人体の不思議展」が大人気な理由もわかる。
 俯瞰視点、っていうんだっけ。神の目線に立つことにエクスタシーを覚えるのかなぁ。

 「これぞ青春だ!」って思いながら青春を謳歌してる人って少数派なんじゃね?
 ちょっと大人になって学生時代を思い出して「ああそういえばあの時が俺の青春だったのかもしれない」って感じるんでないの?
 つまり過去の自分を客観視して初めて気づくもんでないのかと。

 「ネイティブな日本人が愛国心を感じることは無い」って言った人がいてさ。まぁすごい極論だと思うんだけど。
 「日本ていいなぁ」「日本に生まれて良かった」と感じる瞬間ってやっぱ海外に行って異文化を体験した時なのかな、と考えるとあながち間違ってもいないような気がする。
 某国際擬人化漫画の作者は日本人だけど、たしかアメリカ在住なんだよね。海外に行っていろんな外国人と触れあってはじめて「国家」を意識したんじゃないのかな。

 それまで「当たり前」だったことが「当たり前」じゃなくなる瞬間。
 そこにいろんなヒントがあると思うのさ。

 視野を広く持とう、ってのはたぶんこういうことだよね。
 「当たり前」が「当たり前」じゃない視点で物事を見れば、気づくことはきっと多い。
posted by 游太 at 23:47| 🌁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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