2010年02月13日

どうせ誰も見ていないだろうから

 こっちも掃溜めにしてしまおうか。




 やらなきゃならない人生のタスクに好きなことを組み込んで、
それでお金もらって暮らしていけたらいいなんて妄想が、いかに浅はかな考えだったか今ようやく分かった気がする。
 そもそも食っていけるようなスキルなんてなんも身につけてないくせにね。

 日常生活の些細なことに幸せを見つけて、それを糧にして細々と暮らしていければいいや。
 って、それって今の生活となんも変わらなくね?w

 
 たぶん今までの人生は、母親の股の間から取り出された衝撃の、その惰性で生きてきた。
 惰性? 慣性? どっちでもいいけど、つまりは「生きてきた」じゃなくて「生かされてきた」ってこと。
 それが「生きる」「生きていく」に変わるターニングポイントが今なんだろうな。


 生きることと死ぬことって同じくらい辛いんじゃないか。
 生きてるのってしんどいけど死ぬことだってしんどいよ。
 惰性であれ自力であれ「生」に向いてるパワーを無理やり「死」に持っていくわけだからね。

 喜怒哀楽が維持できない。
 瞬間的に終わってしまう。
 嬉しいことも楽しいことも哀しいことも辛いこともすぐ消えちゃう。
 怒りだって「めんどくさい」に変わる。
 そしてすべてが無気力になる。

 「好き」の反対は「無関心」。
 「好き」だけじゃない、たぶんすべての感情の反対が「無関心」。
 だんだんそっちのほうに引きずられてる気がするんだ。


 自分は果たして「生きている」と言えるのか。
 否。
 答は「生かされてる分際で満足に生き切れてない」だろうな。


 死んでるように生きてるってこのこと?
 否。
 それすらも死に失礼だ。
posted by 游太 at 23:35| 🌁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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